【 戸山流という流派 】

 

   戸山流居合抜刀術は、大正14年、旧陸軍戸山学校にて生み出されたものである。

当時戸山学校では、将校等の軍刀帯刀者のため、戦場で役立つ軍刀の操法が様々に工夫研究された。日清、日露、シベリア出兵等の外戦経験を経て、その研究結果は、「軍刀の操法及び試斬」という冊子にまとめられた。これが、戸山流居合抜刀術の原型であり、やがて、後の支那事変、太平洋戦争での経験によって改良が加えられた。

 

 このような経緯で成立した戸山流は、古流の居合と比べ「生まれが由緒正しくはない」という印象は否めない。他流のような名人や達人の伝説がないことはもちろん、名人や達人を生み出すための明確な方法論さえも存在しない。戸山流にあるものは、素人に対して短時間のうちに実践的な技術を修得させる方法論だけである。したがって、そこには深遠な哲学も存在しない。

 

 我々日本人は、総じて先の大戦において忌まわしい記憶を持っている。そして忌まわしい記憶は葬り去りたいという無意識の衝動に駆られがちなのはごく自然な感情である。そのため戸山流に「古流としての装い」を施そうとしたり、「武士道」「剣禅一如」「活人剣」などといった付加価値を与えようとする人々も見受けられる。また、先の大戦、特に旧日本軍を必要以上に美化しようと、この流派を「日本精神」や「大和魂」の象徴として取り扱おうとする場合もまま見受けられる。しかし、残念ながらこのような態度は、いずれも戸山流の真の価値を理解していないと言わざるを得ない。 

 

 先の大戦は、日本が、物資面、精神面共にその全てを結集して臨んだ総力戦であり、日本刀の使用法についても、戸山学校で様々な試行錯誤、徹底した比較検討が行なわれた。

 「合理的」であること「実用的」であることのみをひたすら追究し、様々な古流の型の中から贅肉を削ぎ落とすようにして取捨選択し、整えられた形(かたち)こそが戸山流であるという事実、またそれを支えた理念こそが戸山流の真の価値だと考えられる。

 

 「合理性、実用性の追究」という確固たる基本理念、そしてそれを妥協なく行おうとした関係者の姿勢、実際にそれを行ってきたという経緯…「戸山流」という流派を現代の我々が稽古する意味も、ここにある。

 

 

 

【 戸 山 流 の 歴 史 】

 

 (1)戸山流の誕生

 

「戸山流」の「戸山」とは地名であり、「戸山流」という流儀名は、明治六年に東京都新宿区戸山町一丁目に日本陸軍の戦技研究学校として創設された「陸軍戸山学校」に由来して名付けられた。

 

 幕末から明治にかけての戊辰戦争等の国内内戦の結果、旧来の刀槍による日本武術は、近代兵器の前では無力なものであるかに見えた。軍隊の近代化が急務と感じた明治新政府は、明治6年フランス陸軍から軍事顧問を招聘する。その際、フランス軍事顧問は従来の刀槍に代えてフランス式剣術(サーベル術)の指導に当った。

 しかし、明治10年の西南戦争において旧薩摩武士反乱軍が新式の銃装備もつ政府軍をたびたび撤退に追い込むという事態が起こった。これは政府及び陸軍首脳部に日本剣術の優秀性を再認識させ、フランス式剣術の非力さを痛感させることになった。

 しかし、明治17年に再び来日したフランス陸軍から派遣された新たな軍事顧問は、陸軍卿西郷従道に日本剣術の全廃を強く求め、その強硬さに一時これが認められてしまう。これには当然反発も大きく、その結果、日本武術とフランス式槍術・剣術の比較研究が本格的に行なわれることになった。その一環として、両者の実験試合ももたれたが、フランス式槍術や剣術は日本武術に全く歯が立たないという結果が出るにいたった。(ちなみに、これは銃剣術の比較検討が主であったといわれる。陸軍にとって銃剣術の確立は最優先の急務であったため、日本の古流槍術の熟練者とフランスの銃剣術の教官との実験試合が幾度も繰り返されたらしい。)

 明治23年、日本陸軍の軍制がフランス式からドイツ式へ変更されたのにともない、フランス軍事顧問が離日したのを機に、フランス式剣術は陸軍の正課から姿を消すこととなった。

 

 当時、将校等の指揮官は、後方部隊の者でも軍刀の操法を心得ておく必要が生じており、そこで剣道の心得の有無にかかわらず、戦場ですぐに役立つ軍刀の操法の研究がなされるようになった。

 そこで、国内の古流の居合・剣術の各流派の伝書が戸山学校に集められ、徹底的に比較研究され、最も合理的かつ実践的な技を集めて体系化された。こうして戸山流居合抜刀術は、大正14年(1925年、一説には大正13年)、に陸軍戸山学校にて制定された。

 制定当時は「戸山流」という呼称は存在せず、「軍刀の操法及び試斬」と称していた。日本刀の使用法について様々な試行錯誤が行なわれ、その研究の集大成と言えるものがこの「軍刀の操法及び試斬」であり、これは軍の将校に向けて作られた実戦刀法のテキストでもあった。これが戦後、「戸山流居合抜刀術」の母体となったのである。

 

 さて、戸山流の母体となった軍刀術は、次のような方針のもとに組み立てられた。

 

①修得が容易でなければならない。

 (熟練者でなければできぬような巧妙なものでは、万人への普及にならないため、少しの修練でも  

  実践できる様な簡単な技で構成されている。真っ向に斬り下ろす・斬り上げる・突く・左右袈裟

  に斬り下ろす等々の基本的な刀法を採用した。)

②合理的でなければならない。

 (無理のない合理的な動きを追求し、熟練者だけしかできないような高度な技は採用しなかった。

  全体の構成も基本的な動きを修得すれば、即応用が利くよう工夫されている。また、本来「居

  合」は、抜きながら斬り付きをするいわゆる「抜き打的技法」がその神髄であるが、必ず二の太

  刀でとどめをさすところまで稽古をさせるように全ての技を体系化した。)

③実戦に即応していなければならない。

 (戦場では、巧妙な技よりも機先を制した大技の方が役に立つ。たとえば。突きは敵の喉を突くよ

  りも水月を突く方が成功率が高いため、全て水月を突く形になっている。また、古流居合の諸流

  派は座り技が主体であるが、戸山流は実戦指導者である将校が戦場で敵と戦うために考案、体系

  化されたものであるため座居合は採用せなかったため、技の中には本来座り技であったものを立

  技に改変されたものもある。)

 

 こうして検討を重ねた結果、結局五本の型に限定された。

 

(2)第一次改定

 

 戸山流の第一次改定とは、昭和9年の「陸軍戸山学校の剣術教範」の改訂をもとにし、 昭和15年 「偕行社記事」11月号付録「軍刀の操法及び試斬」から昭和19年の森永清中佐による形の創設までを言う。

戸山流居合も「剣術教範詳解」も、それまで一部の人にしか知られておらず、軍上層部から要請を受けた当時の戸山学校長、尾崎義春少将が、「軍刀の操法及び試斬」の編纂を森永清中佐に指示した。「戸山流」という名称は、昭和10年戸山学校で編集された「剣術教範詳解」に初めて現れるが、同書には、「大正14年に戸山流居合として五本の型が制定された」という記述もある。

 

 従来、全ての技は基本的に対一人敵の想定であったが、改定では対数人の敵も想定する必要がある

という考えが生まれ、型の内容が若干変化した。

 たとえば、対一人敵の型は、基本的にそのままとし、新たに対数敵の型が取り入れられた。対数敵型は、一人で二人に対する場合を想定した型が主である。

 一つは前後から敵が迫る場合、もう一つは左右から迫る場合を想定し、この二本の型を新たに加えることとなった。

 また、当時突撃の中心となった将校幹部の突撃要項を取り入れ、対数敵の型を一本採用しこれを加えることとなった。(この「突撃の型」は、薬丸自顕流の「懸かり打ち」を参考にしてある(森永清談)」)。

 また、対一人敵の型の中にある直前の敵に対する抜打ち的技法は、戦場では用いる場合が少ないであろうと考え、この五本目の型は削除された。結局、対一人の型が四本、対二人の型が二本、対数敵(突撃)の型が一本の計七本になった。

 

○第一次改定のまとめ

 

 1,一本目から四本目は従来の通り。

 2,五本目(直前の敵)の代わりに新たな五本目(前後の敵)を追加。

 3,六本目(左右の敵)を追加。

 4,七本目(突撃)を追加。

 

 偕行社(陸軍の全将校の加入している互助組織であり、偕行社記事とはその月刊機関誌である)の昭和15年11月号付録として「軍刀の操法及び試斬」と題した小冊子が発行されたが、これが第一次改定の核心部分である。次いで、昭和17年1月号の偕行社記事 に付録として「短期速成教育軍刀(一撃必殺)訓練要領」が発表され、国防武道協会はこの二つを一冊にまとめ発行した。この第一次改定の意義は大きい。なぜならば、大正14年に制定された戸山流居合の原形は、実際には軍内部においてもほとんど普及しておらず、この第一次改定において初めて全軍に流布されたのからである。更に、昭和19年には、森永清中佐(当時)により「形」も創設された。

 

 この第一次改定作業にあたり、技術的な研究を行い、その中心的な役割を果たしたのは 森永清中佐と前広節夫少佐と思われる。当時、伊藤清司少将、江口卯吉中佐、持田盛二範士、斎村五郎範士は戸山学校の嘱託剣術教師であり、この改定にも関係していたらしい。

 また海軍軍属の高山政吉教士も高山流抜刀術をその参考技として示したという事実があった(高山氏は、ある資料では陸軍にいたことになっており、武者修行のために従軍し、上海戦から南京入城までに「近代戦用の白兵抜刀術」という本を著述し、昭和13年に高山流白兵抜刀術基本業77本を発表している)。

 

○基礎居合(形)の創設

 

 居合本来の抜き打ちで斬るという技法は、技術的な難度が高いため、刀法の基本である両 手で刀を持って斬り突きする方法を初心者にはまず体得させるすべきだという方針のもとに、「基礎居合」が作られた。この「基礎居合」を、日本剣道形のように打太刀と仕太刀の相対の形式に整えたものが、「形」である。

 

 

(3)第二次改定(昭和20年以降)

 

 昭和20年に日本は敗戦し、戸山学校はその72年に渡る歴史を閉じることになる。一切の武道は連合軍により禁止されたが、その後、「人間形成」という目的で武道が復活することとなった。戸山流も復興し、森永清はじめ少数の戸山学校の旧教官らによって辛うじてその露命をつなぐことになる。この時期、本居合の一部が改正され、新たに奥居合が設定された。

 

○第二次改正点のまとめ

  1、基礎居合(変更点なし。)

  2、形   (変更点なし。)

  3、本居合(五本目に「直前の敵」を復活させ、「対一人敵」の型を五本とした。また

          「対多数敵」の型である「突撃」はその名称が不適当という人もあり

          「突破」という名称に変更した。)

  4、奥居合(技量のさらなる向上を目指し、「八方抜き」「連続抜き」「早抜き」の三種類

         を奥居合とした。)

 

 

 

 

 

【 参考資料 】

 

「陸軍戸山学校略史」

 

(明治 6年)

 兵学寮戸山出張所として創設。フランス陸軍から軍事顧問を招聘し、従来の刀槍に代えてフランス式剣術(サーベル術)の指導に当たらせる。

 

(明治 7年)

 陸軍戸山学校と改称。

 

(明治10年)

 西南戦争において、旧薩摩武士反乱軍が新式の銃装備もつ政府軍をたびたび撤退に追い込むという事態が起こり、政府及び軍首脳部に日本剣術の優秀性を再認識させ、フランス式剣術の非力さを痛感させることになる。

 

(明治16年)

 フランス剣術(サーベル術)伝習のため選抜した軍曹、伍長12名を戸山学校附けとする。

来日したフランス陸軍から派遣された新たな軍事顧問は、陸軍卿西郷従道に日本式剣術の全廃を求めて、一時これが認められる。この後、日本剣術vsフランス式剣術、古流槍術vsフランス槍術の比較研究が本格的に行なわれるようになる。

 

(明治22年)

 フランス国の教師を全員解任。日本陸軍の軍制がフランス式からドイツ式へ変更されたのにともない、フランス軍事顧問が離日したのを機に、フランス式剣術は陸軍の正課から姿を消す。新たに「剣術教範」制定。

 

(明治27年)

 日清戦争。清国に宣戦布告。剣術教範改定。ただし、軍刀の制式が以前の通り片手(サーベル)であったため、両手軍刀術は正式に採用はされなかった。

 

(明治37年)

 日露戦争。ロシアに宣戦布告。

 

(明治43年)

 剣術教範改定。

 

(大正 3年)

 第一次世界大戦に参戦し、ドイツに宣戦布告。

 

(大正 4年)

 剣術教範改正。両手軍刀術を正式に採用。片手軍刀術は騎兵科のみで採用される。

 

(大正 5年)

 「銃剣術、両手軍刀術教育法の範例」を兵林館より出版。

 

(大正 7年)

 シベリア出兵。森永清、陸軍士官学校に入校。

 

(大正 8年)

 中国北京政府の招聘に応じ、江口卯吉中尉、他4名の曹長を2年間、北京に派遣して、中国軍隊幹部を教育指導(銃剣術)。森永清、陸軍士官学校卒業。

 

(大正 9年)

 戸山学校教科書として「剣術教育」を将校集会所から出版。

 

(大正10年)

 沖縄から船越義珍氏を招聘し、2週間空手を錬磨させる。森永清少尉、戸山学校に入校。

 

(大正11年)

 森永清少尉、戸山学校卒業。

 

(大正12年)

 徒手格闘、及び型の教育を開始。この年より戸山学校卒業生に剣術の段位を附与する。 

 

(大正14年)

 「軍刀の操法及試斬」を編纂する(戸山流居合の創設)。

編纂にあたり、当時日本で最高の剣道指導者であった、中山博道範士・斎村五郎範士・持田誠二教士・大島次喜太教士(旧陸軍戸山学校嘱託教士)と、当時の戸山学校生徒隊長・二宮大尉、伊藤中尉、河野少尉、久保・加藤助教授が大正4年・剣術教範改正に間に合わせべく熱心に研究を重ねて編纂に努力したが、 日の目を見なかった。

 大正14年10月、「戸山流居合」と称し、「当校ニ於テ編纂セルモノニシテ戦場ニ於テ使用スベキ公算大ナルモノトナル事及確実ニシテ簡単而モ会得容易ナル事ヲ主眼トセルモノトナリ。」と同校剣術科が、五本の型と技を、「剣術教範詳解」に掲載している。上記の大正4年の研究が大いに参考にされたと推測できる。

 

(大正15年)

 森永清中尉、戸山学校教官に就任。

 

(昭和 4年)

 森永清大尉、戸山学校を去り歩兵第二十一連隊中隊長に就任。

 

(昭和 5年)

 森永清大尉、再び戸山学校教官に就任。合気道の植芝盛平(47歳)が三浦真陸軍少将の依頼により陸軍戸山学校の武道指導を行う。海軍軍縮条約調印。昭和恐慌。

 

(昭和 6年)

 満州事変。

 

(昭和 7年)

 上海事変。

 

(昭和 8年)

 雪中剣術研究のため牛島満大佐以下22名、山形県下に出張。

 剣術教範改定委員として、長岡大佐、三木中佐、小野原中佐、森村中佐、江口少佐、杉野少佐、池田少佐、小柴少佐、根本大尉、引地大尉、乙守大尉、林大尉、高柳大尉、白崎大尉、松尾中尉、出渕中尉、菊池軍医正が任命される。

 

(昭和 9年)

 剣術教範改定(「軍令陸第三號剣術教範」)。

 

(昭和10年)

 参考書「剣術教範詳解」編集。「戸山流」という名称が広まる。

 

(昭和12年)

 日支事変勃発による動員により学生多数原隊へ復帰し、教育が中絶。森永清少佐、戸山学校教官から神戸停泊場司令部部員に就任。

 

(昭和13年)

 西尾教育総監の考えにより、動員に関係なく教育を復活することとなり、市ヶ谷予科士官学校内で教育を再開する。森永清中佐、歩兵第二十一連隊大隊長に就任。同年、三度戸山学校教官に復帰(剣術科長?)。

 

(昭和14年)

 市ヶ谷から戸山に復帰して教育を行う。軍刀の操法の研究が開始される。出動兵員に一層の技術普及の必要上、主に銃剣術の向上を図るため、一時期閉鎖休校していた戸山学校教育も再開される事になった。また、戦況の拡大に伴い、「戸山流居合」の改変も新たに進められた。当時の戸山学校剣術科科長の森永清中佐と、前広節夫少佐が中心となり、大正14年当初の研究当時と同じ嘱託教師の、中山範士、斎村範士、持田範士、大島範士等の意見を交え七本の型(本居合?)が研究される。

 

(昭和15年)

 満洲に於ける銃剣術指導の為、森永中佐他2名を派遣。

 剣術教育要領編集委員として、岡村大佐、引地中佐、森永中佐、吉野大尉、富田大尉が任命される。

 軍刀の操法並試斬(戸山流居合)改定。(戸山流第一次改定)「偕行社記事」11月号付録「軍刀の操法及び試斬」発行。

 

(昭和16年)

 太平洋戦争開始。

 

(昭和17年)

 「偕行社記事」1月号付録「短期速成教育軍刀(一撃必殺)訓練要領」

 

(昭和19年)

 「短期速成教育軍刀(一撃必殺)訓練要領」を「軍刀の操法その一」、「軍刀の操法及び試斬」を「その二」として一冊にし、国防武道協会から発行する。

 森永清中佐(当時剣術科長)による「形(基礎居合形)」の創設。

 同年、森永中佐は第二国境守備第二地区隊長に就任。

 

(昭和20年)

 森永清大佐、歩兵第二百六十四連隊隊長に就任。太平洋戦争、終戦。

 

(昭和29年以降)

戸山流第二次改定。

 

 

※「陸軍戸山学校史」の中で、「森永清」という人物の履歴が記載されているのは、美濃羽会におい     

 て稽古している戸山流が、森永清の系統の戸山流であるためである。

  ただし、森永清伝のみを戸山流の正統とし、他の系統の戸山流を否定しようとする意図はない。